2023/04/19

内藤光春の自己紹介・地震うさぎ管理人について

 愛知県豊橋市で産まれ、蒲郡市で育ち、愛知県立豊橋東高校で受験勉強して青山学院大学経営学部に進学し卒業。ヤマト運輸のソフトウェア子会社、ヤマトシステム開発に新卒入社。主に3PLの営業を行う。時は、インターネット草創期で、自分で考えた末、ネット関連を軸に営業展開。楽天へはこちらから営業を何度もかけたのに対して、アマゾンはあちらから当営業所に来て話を聞いていったのが印象に残っている。入り口付近に特別に机を置き、2対2で話した。さすがに上部が対応した。このエピソードからもアマゾンはすごい会社であると判明すると思う。
 経営学部への進学は起業を志していたからだった。学生時代末期、ネット起業を模索する中で1年わざと留年した。就職先は決まっていた。1年待ってくれることになった。必要単位は残り1だった。ギリギリ留年できた感じ。やったのは大学校門前でのチラシ配布。高すぎる教科書問題についてアンケートし、要らなくなった教科書を募った。教科書、20冊くらい集まった。しかし大学の教授が学生課に通報し、大学のイメージを損ねるという観点から校門でのチラシ配布は禁止された。その後AogakuNeXというサークルを作り、校内の情報をWEBに載せるということを始めた。担当教授が必要ということで御縁のあったキリスト教関連の教授がやって下さった。クリスマスイベントの取材も公式に許されて腕章をつけて取材したりした。・・・今思えば、既存の新聞部に入り、WEB掲載を開始するというきっかけになったほうが、僕のキャリアとしても青学としてもよかったのかもしれないな、と思っている。4人でやったが実質僕だけが動いていたし。学校の情報も、当時2時間しかバッテリーがもたないノートPC片手に掲示板までいってキーボードで入力したりした。淡い青春の思い出。この活動の際、縁あって青学他の学生が集まる電脳隊というグループと出会いがあった。青学の教授を父に持つ人がいたり、後にYahooでトップになったひとがいたりもした。確かに当時からすごく、社会についての雑談もレベルが半端なかった。
 1年の留年後、新卒入社してすぐ、インターネットバブルが出現、焦り、私も退社してネット起業の準備を始める。本来の起業は準備をしてから既存の勤めている社を退社すべきであったが。最初に行ったのは図書館での業界調査だったが、結局、具体的には「キャッチフレーズの研究」というメールマガジンの発行を始めた。キャッチフレーズを軸に、企業側の広告担当者と、情報発信側の広告業界担当者との連絡手段が得られるとふんだからだった。数カ月後、「映画をつくろう!」というプロジェクトを発足させ、出演者たるネットアイドルや作家のたまごでホームページを開設している人たちに直メールを行った。500人規模程度。掲示板で交流したが活況と呈した。作家と演者が直接つながった瞬間である。その後、満を持して映画をつくろう!メールマガジン発行開始。直後謎に同様のプロジェクトがメルマガを先に出すなど不可思議な現象にも出くわす。映画をつくろう!プロジェクトは5つの制作プロジェクトを生み、結局3つの個人制作のショートフィルムを生んだ。元々仲間のいた関東住まいの人、CM業界の人、そして、2プロジェクトに遅れて私が制作した。2000年から2003年の頃の話である。キャッチフレーズの研究メールマガジンは800人の読者を獲得したが、やはり広告業界の人がおり、クックパッド創業者と私とが、その広告業界の人に呼ばれて会う機会があり、話をしたことがある。メールマガジンは1年経たずしてやめたが、続けていれば違う未来があったかもしれないと後悔がある。
 2001年冬、導火線チラシのポスティングを開始。B5を8分の1に切ったほど小さな紙にメールと郵便番号を登録しないかと印刷して呼びかけた。いざという時につながりを作らないか、と。2ヶ月寒いなか配った。3万枚ほど配り、30人ほどがメールと郵便番号をWEBで登録してくれた。インターネット草創期である。30人はすごいことだったかもしれない。メーリングリストを展開予定だったが考えすぎてこのメールは使わず、掲示板を設置して運用した。結局は、1人のカメラ事業者がWEBの掲示板に参加してくれただけだった。写真は業界事情厳しかったのだろう。今では写真を現像することは希少である。
 2002年7月、導火線街角掲示板プロジェクトスタート。当初は期間限定と謳った。豊橋駅東口で、読者投稿を呼びかけるチラシシステムだった。事前に通行人数や性別など確認した上での開始だった。平日毎日同じ駅東口でチラシを配布し、メールアドレス宛に投稿を呼びかけた。投稿は翌平日に印刷して配るという趣旨だった。2日配って無反応だったあと、3日目に3通の投稿があった。そこから投稿数が伸びていった。主に高校生にウケたが社会人もいた。当時はiモードが始まって少したった頃だった。その12月、投稿数が多すぎて印刷する文字が小さくなっていた。1日50通程度になっていた。広告営業を並行して行い広告も5通ほど掲載した。しかしお金にはならず、2003年5月、停止に至る。
 配布を停止した私は、2003年5月からプログラムの勉強を本格的に開始。当時主流だったPerlでなくPHPを選んだ。2003年8月、メールで投稿したものをWEBに自動掲載するシステムを開発。豊橋駅東口に再び戻り、チラシ配布を再開した。掲示板の変形のようなシステムはある女子高生に非常にウケて、よく投稿してくれた。そのままWEBシステムをもっと改良していく方向にもっていけば良かったと今では思うが、私は管理人という立場の気持ちよさから、紙面での運用に戻してしまった。権力という魔力。あのWEBシステムはいわゆるWEB2.0の登場の全然前であり、ブログは存在していなかった。ネットで収益を得る方法は、当時はアマゾンのバナー広告程度しかなかった。選択肢が非常に少なく、また収益にこれもつながらないものではあった。自分は成功しそこねたかもしれない。ブログやSNS的なものになりえた。
 WEB版の導火線を運営していた頃、発見があった。投稿の検索機能もつけていたのだが、皆、自身の投稿についてを検索する。人間は自分への関心が99%でできているのだろう。ブロクシステム開始につながればよかったのに逃した。ブログにはトラックバックというシステムがあったし、SNSにはフォローフォロワーという概念があった。私がそこに至れたかはわからない。だが文章が長過ぎることについては問題意識があり、導火線の投稿者のなかには異常に長い文章を複数投稿する人も現れたので130文字制限にも至れたかもしれなかった。
 2005年、親元で活動していた私は、ブックオフやコンビニ等でアルバイトをしながらフリーペーパーの活動をしていたが、ついに諦めて就職するフリをするため、PCショップで働き始めた。本とPCの中古販売のノウハウを得てネット起業に活かそうという気持ちがあった。大学がMARCH出身のアルバイトは珍しかったのだろう、社長が毎日名古屋から通ってきて、私が任される荷受け検品を一緒にした。そんな日々が1ヶ月ほど続いた。話はしなかった。やがて社長は来なくなり、しかし色々経てパソコンパーツの買取や修理の受付・実施業務を行っていた。その際、作業に必要な道具が散乱していたので、私の独断で勝手にカゴを4つ用意してケーブル等の用具を種類分け、作業を効率化した。これは担当者にウケた。その後も、その担当者が店長になる前、修理業務で書類の導線が悪かった点を指摘し、改善した。これもウケた。ただ、5年ほどいたがアルバイトのままにされた。お前はアルバイトだからな、と私を罵倒し続ける上司もいて苦痛だった。リベンジで、修理サポートの担当者に私が任命された時に、その職場に小さな福ネコ人形を無理やり置いたが、誰も何も言えなかった。まったく私を社員にする気配がない職場の待遇に嫌気がさした私は、ニンニクを毎日食べて出勤するということを始めた。約1ヶ月後、私は解雇された。2007年頃まで豊橋駅東口でフリーペーパーを配布したのだが、1000号が目前でやめた。何か節目の魔力のようなものもあるのかもしれない。この間に、読者さんからは100通〜200通くらいのファンレターを手紙でもらい、プレゼントや現金をもらったこともある。1000号までやっていれば何かあったかもしれない。地元の著名な会社の社長と顔見知りになったり、トヨタ系の会社の社長と顔見知りになったりしたのである。名古屋方面の小売店の店長とも顔見知りになったりしたし、選挙活動に邁進する政治家とも2人、縁があった。非常に多岐にわたる人脈ができつつあったからだ。
 再び自由になった私は、アルバイトはせず、両親に扶養されながら、地域のイベント情報をWEBで発信するサイトを運営した。そして2012年頃、プログラムを書き、地震うさぎBotを開始する。2013年には今と同じ地図素材を利用したものを制作し、運用を続けた。それからはバグ修正の連続、メンテナンスの連続だった。イベント情報の発信のほか、気温湿度のBotも作った。しかしほとんど金にならなかった。Youtubeアカウントは既に開設しており、広告掲載するから投稿してね、という状態だったがYoutubeには進まなかった。SNSが苦手とされたGoogleが開始したGoogle+というサービスが始まっていたし、Google検索すると動画が上に当時出やすかった。動画投稿者をフォローするとフォロバが返ってくる時代だった。だが、私の出自は文章だった。ユーストリームやツイキャスはやってみたけれどもやめた。
 こうして現在に至る。ChatGPTが登場し、対抗も現れる中、必要かどうかわからない本の要約サービスを自分ではじめることにした。紆余曲折あった。2000年頃には既に本の紹介サービスは存在していた。非常に価値のあるサービスでもある。
 日本は今後、ゆるやかに没落してゆく。80年がピークで90年まではバブルだった。それからの日本は駄目になっていく一方だった。
 シンガポールのリー・クアンユーがいる。自分より優秀だと判明した女性に求婚して結婚、育て上げた。シンガポールのような小国だからできること、というのも存在はする。だが、見習いたい。教育こそが国の石杖である。日本に今必要なのは、少子化で少なくなっていく一方の貴重な子供たちを優秀に育てていく、大切に、ということが必要だ。
 これからAIの時代がくる。ChatGPTが来た。対抗も現れている。文章要約サービスなんて不要な時代はすぐそこ。なにやってるんだろうね?AIで壁打ちすることで人は強くなる。将棋界を今席巻している藤井さんはAIと対戦して勉強している。学習はAIが担うことになるだろう。過渡期にAIの養分になるつもり。素晴らしいAIが完成すれば、教育は担保される。今後の未来が楽しみで仕方ない。